ハイクラスの宿に泊まると「本当の幸せとは何か」が手に取るようにわかる

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「いい宿に泊まれること」などと答える方は、この記事を読むことで時間を無駄にする可能性があります(笑)
さあ、きちんとお断りは済ませたし、本題に入りましょう。

先日、ハイクラスの宿に泊まりました。

そんなの慣れっこだよという方には、なんてことないのかもしれませんが、普段安宿にしか泊まらない僕にはとてもすばらしく思えました。

ここで、問題です。

同じ宿に泊まって、「それがどうした」と大した感動もない人と僕のように「よかったなあ」と喜べる人では、どちらが幸せでしょうか?

こう聞くと、たいていの人は次のように受け取り考え始めます。

いつもいい宿にばかり宿泊できることと、めったにそんなところは利用できないこと

ちょ、ちょっと待ってくださいよ。
そうじゃないですよね?

僕の質問をよく確認してください。
2か所の太字の部分をよく見てください。

「大した感動もない」「喜べる」
その二つを比べるんですよ。
「いつも」と「たまに」を比べるのではありません。
知らぬ間に、頭のなかで変換しちゃうんですよね。

いつもいい宿に宿泊し、いい思いができることと、そんなところは利用できずいつも望んでばかりいること。

だから、

「いつもいい宿に泊まれることに決まってるじゃない」

などという素っ頓狂な答を平気で出してしまうのです。

これは極性の法則を理解すると、とてもよく納得できます。

どんなによいかではなく、自分がどんなによく感じられるかがすべてだ

ほとんどの人がこのことを忘れているのです。
そして、

いい宿に泊まる→いい思いをする

こんな公式を勝手に作り上げてしまいます。
そんなことは決まっていませんよ。

本当にいいかどうかは、実際に自分がその立場になってみて初めて決まることだということを忘れているのです。
もしくは、気づいていないのかもしれませんね。

イヤでもわかるだろうというたとえを一つ。

写真展に行き、すばらしい作品を見ることができてとても感動した。

この場合、すばらしい作品を見られたことがが幸せだったわけではありません。
とても感動できたことが幸せだったのです。

  • もし、いやいや見に行ったのだとしたらどうですか?
  • 出かける直前に、可愛がっていたペットが亡くなっていたら?

そのものがどうかなんてことではなく、感動できたという結果に幸せを感じているわけです。

現に僕は、洒落たフレンチのコース料理なんかより、丼ものをかっこんでいるときのほうがずっと幸せを感じます
堅苦しいのは大っ嫌いだし、なんたって旨さが違いますからね。

おまけに、でっかい皿にチマチマとした料理というアレが嫌いです。
デザインを重視してのことなんでしょうが、あのラフなソースのかけ方も嫌いです。

それに対して、和食料理人のきめ細やかな技術と心意気のすばらしさといったらどうでしょう。

※ これはあくまでも個人の感想です。必ずしもすべての方に当てはまるとは限らないことをご了承ください。(まるで通販番組ですね)

そこで、牛丼屋でバイトしている青年にインタビューしてみたところ(ウソです、冗談です)

「ほとんど毎日賄いで食ってると、旨いマズイを感じる以前に麻痺しちゃってますよ。たまには洒落たコース料理でも食いたいですよ」

という意見が返ってきました(ウソです、創作です)。

このように、その人の状況ではどうなのかという観点からしか、そのものの価値は決められません。
だから、何かを羨んで「ああ、いいなあ」なんて短絡的に思うことが誤りなのです。

変わり映えしない毎日に嫌気が差しているあなたと、日々せわしなく息もつけない暮らしをしているあなた。

お互い相手のこんなつぶやきに耳を傾けましょう。

「何か刺激的なこと起こらないかしら」
「何も起こらず平穏無事な日々がいいわ」