「的を得る」が誤りだと知らなかった方への朗報が人々を覚醒めさせるのか?

何の意味があるのかわかりませんでしが、有名な誤用として知られる「的を得る」を立てつづけに見かけました。
なかには、「的を得てる」なんていうのまでありました。

鋭いあなたにはもうバレましたかね(笑)
のちほど、その意味が明かされるということです。

ブログはいつから自分の知性のなさを発信するためのツールになってしまったのでしょうか?

シニカルな文章が売りのブログなんかだとこういった表現をするのでしょうが、ハッキリいって僕はそんなことには関わりません。
人の知識のなさをあげつらっても何も生み出しません。

それに、他人の誤りを指摘して、鬼の首でも取ったように振る舞う人がいますが、個人的にあれがいちばんキライなので。

ただ、ご存じなかった方は、大至急ググってみることをおすすめします。

顔から火が出る思いをするでしょうが、そんなものはこれからも続く恥さらしに比べれば何でもないことです。

聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥

といいますしね。

さて、そんな方々への朗報についてお伝えしましょう。

的を得る?

正しい表現の「的を射る」との違いを考えたら、明らかに誤り思えます。
どう考えても的は得るものではないですからね。
「射抜く」ものです。

ところが、この明らかに誤りにしか思えない表現が、あながちそうともいい切れないということなのです。

辞書だって所詮は…

そもそも、何故「的を得る」は「誤用」とされたのか? 実は最初に「的を得る」を「誤用」と定義した辞書は、日本有数の権威ある辞書の一つである「三省堂国語辞典」だそうです。それまで辞書に採録されていなかった「的を得る」を掲載するにあたり、「的を射るの誤用」と記載したのだとか。しかしながら、近年になってこれが謝罪の上撤回されました。

間違えやすい日本語表現
「的を得る」は「的を射る」の誤用ではない? 底無しの「日本語沼」の話より引用

いかがでしょう?
これまで、恥ずかしい誤りをしてきた方ももう安心ですね。
権威ある三省堂が誤りではないと宣言してくれたわけですから。

おっと、勘違いしないでくださいね。

  • あなたが正しかったというわけではありません。
  • 三省堂の見解が正しいということでもありません。
  • 「的を得るが誤りだ」と主張してきた人々が誤っていたということにもなりません。

その説明の前に、筆者である澤田慎梧さんの対応が、これまたすばらしいので紹介しておきます。

本件は解釈が分かれて当たり前の話ですので、一方が「絶対に間違っている」とする極端な言説に、私は一切与しないことを、ここに書き添えておきます。

間違えやすい日本語表現
「的を得る」は「的を射る」の誤用ではない? 底無しの「日本語沼」の話より引用

まさに大人の対応ですね。
といって済ませてしまうには、もったいなさすぎる例なので、あることをお伝えしましょう。

思慮深い

この澤田さんのようなスタンスをとることで、自分の説を主張してくる人々をいちいち相手にするなどという不毛なことを避けられます。
では、なぜそういった議論が不毛なのか?

正解などない

からです。
たしかに、「どちらがよく使われていた」のようなことはあるかもしれませんが、それも「正しいか誤りか」ということには関与しません。

ここで、「宇宙にはよい悪いがない」というお話をします。
サイト内の記事で嫌というほど目にしているかもしれませんが、はじめての方もいらっしゃるでしょうから。

極性の法則を理解しているという前提で説明するならばカンタンです。

すべては同じ性質のものの程度の差に過ぎない

これだけで済んでしまいます。
とはいえ、一般の方にはサッパリでしょうね。

補足すれば、境界線が引けないということを考えるとわかりやすいですよ。
「ここからここまでがよくて、ここからここまでが悪い」などという規定はできませんよね。

あくまでも、ある条件下ではどうだ。
ある結果を期待した場合にはどうだ。

そういった前提なしには、どちらともいえないのです。
これはすべてのものごとに関していえることです。
先ほどの例でいえば、三省堂はこういっているのです。
「誤りだということは撤回します」
決して、正しいと断定しているわけではありません

全部、摺り込み

「そうはいっても明らかにこれはダメなんじゃないの?」などといいたくなることもあるでしょう。
○ 盗みはよくない。
○ 親切にするのはよいことだ。
などなど、決まっていそうなことはいくらでもあるだろう。

でもね、バカなことをいってはいけませんよ。
全部、摺り込みなんですから。
「 お巡りさんに怒られちゃうでしょ! 」
そんな躾しかされてこなかった不幸を嘆くほうが先です。

本当は、そのどれ一つをとっても決まってなどいません。
すべて、社会通念としてどちらだとされているに過ぎず、決まっているわけではないのです。

「的を得る」などという奇妙な表現を立てつづけに目にしたことの理由は、このよい悪いがないということの再確認と自分の主張を通すために議論することの不毛さを発信するためでした。

勝ってどうなるというのでしょう。
勝利なんて敗者を創り出す行為だと気づかないのでしょうか。

そして、もっと大切なことに人々が気づくのはいつの日でしょう。
分離世界から抜け出すことに目を向けなければ、永久に幸せな人生など望めやしないということに。